当事者が、
自分のために作りました。
会えなかった命の先に、この子がいる。 ——きろくのタネ 開発者 理恵子
やっと会えた子でした。
41歳から不妊治療を始めました。年齢的にも時間が限られている中で決断したのは体外受精でした。
一度目の妊娠は、心拍が止まりました。
それからは、胚移植をしても、妊娠しない日々。毎日の投薬と、採卵と、移植の痛み。
心も体も、限界でした。
これで最後と決めた移植で、二度目の妊娠。
二度の流産の危機を越えて、43歳で息子を産みました。
初めての子どもだから、息子ができないことが普通だと思っていた。比べる基準が、なかった。
1歳6か月健診で、医師に言われました。
「あんたの息子はおかしい」と。
その後、診断が出ました。
発達障害、発語遅滞。
診断が出たとき、ショックで泣きました。
「人に興味関心がない」とも言われました。
その言葉は、今でも心に残っています。
帰り道、ずっと考えていました。
体外受精で産んだから、この子は発達障害になったのだろうか、と。
色々なことを思って、自分を責めました。
それでも息子と病院に通い続けました。
駐車場に着いた瞬間、息子が泣き始める。抱きかかえて受付へ。待合室でも泣き続けて、名前を呼ばれた瞬間にまた大泣き。羽交い絞めにしながら診察を受けて、二人とも汗びっしょり。迷惑をかけているのが分かるから、早く切り上げることに意識が向く。
車に戻ってやっと息をついたとき、気づく。
——また、言えなかった。
診察室で「発語の数はどのくらいですか」と聞かれて、答えられなかった日があります。曖昧なまま答えて、帰り道にずっと悔しかった。伝えられなかったことが、息子の支援に影響するかもしれない——そう思うと、また自分を責めました。
息子の療育は月2回、1時間半。施設には連絡帳がなく、本当に聞きたかったことを聞けないまま帰ることが続きました。
相談できる友人もいませんでした。祖父に発達障害のことを説明しても、受け入れてもらえない。孤独の中で、記録だけが「ちゃんとやっている」という、自分への証拠でした。
でも、息子はたくさんの人に支えられていました。
保育園の先生は、イベントのたびに息子と一緒に先に遊戯室へ入って、環境に慣れさせてくれました。歯科検診では、怖がることが分かっているから、診察の前に膝に頭を乗せて練習してくれました。歯科の先生は、泣いて暴れて蹴りが飛んでも「元気だなあ」と笑って受け流してくれました。
遠足の前には、私が予行練習で動物園へ連れて行きました。息子にはベビーカーが必要なことが分かり、バスへの不安をどうしようかと先生に相談すると、「お気に入りの玩具を持ってきていいよ」と言ってくれました。
当日、息子は緊張しながらも玩具をぎゅっと抱きしめてバスに乗り込みました。泣かなかった。立ち上がらなかった。シートベルトを締めて、無事に出発できました。
動物園では、疲れたら自分でベビーカーに乗ってベルトを締めようとしていました。帰りのバスでは、来たときと同じ席にちょこんと座っていました。思わず笑ってしまいました。
後日、市の子ども課に出向くと、担当の職員の方が走って駆け寄ってきてくれました。
「無事に遠足行けて良かった。予行練習したお母さんも偉い。保育園から連絡が来て、職員みんなで手を叩いて喜んだよ」と。
孤独だと思っていました。
でも息子と私は、こんなにたくさんの人に支えられて、今日も過ごしていました。
「人に興味関心がない」と言われました。
その言葉は、今でも心に残っています。
でも今日、息子は初対面の人を、自分から先頭になって部屋へ案内しました。「バイバイ」と手を振って、お見送りもしました。
記録を続けていなければ、この変化に気づけなかったかもしれない。
だから作りました。
会えなかった命の先に、この子がいる。
理恵子きろくのタネ 開発者